小学校のころよく読んでいた作家は、いま思えば、尋常でなく旅好きだった。
3か月くらいに1冊、新刊がでた。
新刊の物理的魅力は、とほうもなかった。
このなかに、あたらしい物語がつまっている。
ためいきがでる。
ななめにして、つやつやと光る、キズひとつない表紙を愛でる。
カバーをもどして、本編をごっそりめくる。
まず、あとがきを読んだ。
はやる心をおさえる。
いきなり滑るところぶので、まずは準備動作をする。
3か月ぶりに、作家の消息を知る。
ああ、なつかしい、この文体。
そのひとの香りがするようだった。
作家は、SFも書けば、歴史ものも、現代ものも描いた。
ジャンルは、てんでばらばらだった。
順序にも、法則はなかった。
予告は、たやすく破られた。
あとがきに書いてあった、次刊の予定は、あっさりとひっくりかえった。
3か月後には、裏切りの新刊が、店頭にきらめいていた。
飽きさせない作家だった。
日本の片田舎に縫いつけられた羊を、旅の舟にのせてくれた。
作家の舟は、宇宙船でもあり、タイムマシンでもあった。
舟のへりから見る海外も、等しく魅惑的だった。
作家が語るものは、なんでも掻きたてるものがあった。
作家は、書きあげるたびに海外にいっていた。
搭乗待ちの空港で、このあとがきを書いていると、記していたこともある。
そのころは、まとまった休みをよくとる大人がレアなことも、海外旅行がバカ高いことも、よくわかっていなかった。
ただ、あこがれた。
小学生の行動範囲はせまかった。
そのせまさを、つき崩すだけの気魂はなかった。
従順な子羊だった。
地面にぬいつけられた羊は、作家の旅先に夢をいだいた。
おとなになれば、スリを警戒しなければならなかったり、不機嫌なお店のひとがいたり、だましにかかられているのか判別できないことがあったり、ちいさい不快なことが積み重なるのが、海外だということは知っている。
でも子どものみる海外は、理想そのものだった。
なにか見たことのない、夢のような場所だった。
作家は、夏には南へ、冬にはよりいっそう寒冷の地へ、旅立っていった。
毎年、クリスマスは、なにを好き好んでか、極寒の地へ飛びたった。
クリスマスがただしくクリスマスである地へ、ひとり赴いていた。
去年は、ウィーン少年合唱団のコンサートを聞きにいく。
今年は、フィンランドの片田舎で、ミサに参加する。
その翌年は、ドイツのド田舎を、訪ねていた。
静かで、トラディッショナルな降誕祭が、作家の好みだった。
旅についての本もだしていた。
リスクの分散がなっていない気がするが、旅先には、クリスマスグッズだけのお店もあった。
年がら年中、クリスマスモード。
リスクがどうとかいうのは、つまらぬおとなの浅慮で、イルミネーションに彩られたショップは、アルプスのなかの一軒家のごとき、あたたかさがあった。
暖炉のごとき、おだやかさ。
けっして華美ではない、洋風家屋に、雪が積もっている。
しろい十字の窓枠の奥に、ろうそくの炎がゆれている。
少しの飾りつけのある家々が、ずっと連なっている。
「かわいい家」と作家は書いた。
かわいい家がならんでいる、それをみるだけで重畳だと。
家にかわいいとは、なんだろう。
日本家屋には渋みがあって、キュートだとはいいがたい。
サイズがあきらかにかわいい松下村塾には、粗末か、質素か、剛健があった。
幕末期に、日本を訪れたチェンバレンが、
「古い日本は妖精の棲む小さくてかわいらしい不思議の国であった」
と書き残しているから、文明の柵をこえると、かわいいの感情がせりあがってくるのかもしれない。
ホビットの家みたいなものか。
質素でトラディショナルな降誕祭はこうだった。
こどもたちが、降誕の日の劇をする。
指さきが凍りつくような夜に、三人の賢者が尋ねてきて、マリアに予言するのだ。
こどもがするから、とてもつたない。
でもその劇の、つまらない端役をしたということが、おとなになっても忘れられない。
日が暮れると、夜を徹して、特別なミサをする。
カトリックの儀式は、ぞくぞくするほど神秘めいている。
パイプオルガンが、聖歌が、尖塔にすいこまれていく。
底冷えのなかで、風もないのに、ろうそくが一斉にゆらめく。
はったりこそが重要だと、めくるめく手順が教えてくれる。
カトリックの緋色のガウンがはためく。
帰宅すると、暖炉のまえに、プレゼントが並んでいる。
聖のなかの緊張が、ほっとゆるまる。
プレゼントには、誰から誰へと、ネームタグがついている。
たくさんのちいさなプレゼントが、山盛りになっている。
一方、日本の羊のクリスマス当日は、枕もとに、プレゼント包装された物体がおいてあるだけであった。
前哨戦はあった。
こども会や学校で、クリスマス会が頻発した。
どこにもクリスチャンはいなかったが、西洋のまつりのご相伴にあずかった。
日に日に、クレッシェンドはつよまっていく。
前夜にむかって、高まっていく。
本戦までの、トライアル、練習が重ねられていく。
いよいよ、本戦。12月24日の夜。
だれも聖歌をうたわないし、ろうそくも灯らなかった。
なにかに感謝も捧げないし、アーメンもいわない。
もっというと、おそろしいことに、だれも祈らない。
ふつうに寝る。
供与される物体を、心待ちにしながら。
そうやって、なにを祝ったのか、なんの褒美なのかわからないまま、クリスマス気分を霧散させる暴風で、年末がおしよせる。
なんでかよくわかんないけど、そうじを強要させられる年末がやってくる。
これはきっとクリスマスではない。
にせものだ。
極東の羊はさとった。
ほんもののクリスマスは、ヨーロッパにある。
羊は、ほんものを憧憬した。
冬になると、クリスマスソングを漁った。
なにを勘違いしたのか、ひとりクリスマスをスタートさせていた。
11月に入らないうちに、狂ったようにアルバムを流した。
洋楽アーティストが、よくクリスマスアルバムをだしていた。
そのなかでも異色に、こころ惹かれるものがあった。
サビの部分でこう歌う。
Glo-lo-lo-lo-lo-lo-ria
もうこの歌いかたに、一目惚れした。
たくさんの音をつかって、lo-lo-lo-lo しか言ってない。
さいしょのGを聞き落として、ohhhhhh ohhhh ria と聞こえる。
そしてこう続く。
In excelsis Deo
インエクチェルシスデオ。
あきらかに異質なひびき。
ラテン語。
「死語」と注釈がついているのにも痺れる。
呪文のような響きにも、酩酊した。
そう、ここに、クリスマスがあるのだ。
このラテン語のひびきのなかに。
かろやかでなめらかな、あふれでる賛美のなかに。
美しいコーラスのさきに。
日本の羊が、なににあこがれたのか、いまならわかっている。
祈るということが、よくわからなかったのだ。
通じるから、祈るんだろうか。
祈りはいつやめるんだろう。叶ったときか。
信じるということも、わからなかった。
ここにはないものを、眼にはみえぬことを、あたまのなかにしか存在しないことを、否定する人がたくさんいることを。
そしてそれができることが、なんらかの能力に思えたのだった。
作家がたずねた、極寒のクリスマスは、いまだ健在なんだろうか。
そこにある祈りは、眼に見えるのだろうか。
さむがりが治癒したらいってみたいです。